HeartBreakerU 1
「あ、これ……」
本屋の児童書コーナーを通り過ぎたとき、千鶴は見覚えのある表紙絵が目に留まり、立ち止まった。
「これ……見たことある。持ってた……よね?」
かなり昔に、この本を読んでいたような記憶がかすかにある。どこで、何歳ごろという詳細はぼんやりしているが、この絵は確かに見覚えがある。
「『かみさまからの……』」
千鶴は絵本を手に取り、タイトルを読み上げた。パラリとめくる。
言葉や文章はほとんど覚えていないが、絵と内容については確かに記憶にあった。
「確か……赤ちゃんが産まれるときにみんなにそれぞれ神様が贈り物をくれるって話で、力持ちの贈り物とか綺麗な声の贈り物とか……」
そうだ。それで千鶴がもらった贈り物は何かという話を誰かとした覚えがある。
「私がもらった贈り物は確か……」
「千鶴ちゃん」
千鶴のたどっていた細い記憶の糸は、後ろからかけられた声で途切れた。
「沖田さん」
「こんなところにいた。絵本コーナーなんて考えもしなかったから随分探したよ」
千鶴は沖田の手に持っている紙袋を見た。
「買えたんですか?」
「うん。千鶴ちゃんは? それ、買うの?」
手に持っていた絵本を沖田に示されて、千鶴はもう一度絵本を見た。買うつもりで手に取ったわけではないが……
「……そう、ですね。買おうかな」
言った途端、欲しくなってきた。
沖田は、千鶴の少しだけ高揚した表情に目を瞬く。どんな絵本なのかと覗き込んで、そして固まった。
「……」
「沖田さん? 私、じゃあこれ買ってくるんで……」
千鶴がレジへ行こうとすると、沖田が止めた。
「千鶴ちゃん……」
妙に真剣な表情で、沖田は千鶴の目を見つめる。至近距離で綺麗な緑の瞳で見つめられて、千鶴はだんだん顔が赤くなるのを感じた。
「な、なんですか?」
「……赤ちゃんができたの?」
沖田の言葉に、千鶴はキョトンとした。
「……は?」
「だったら、絵本もいいけどまずは……まずはえーっと何を買えばいいのかな? 姓名判断の本と、あと……あと、たまごクラブとかかな、それからそれから……男かな? 女の子かな? それによって買う本も違うのかも……」
実用書の方へ千鶴の手を掴んで歩きながら、沖田はぶつぶつと呟いている。
いつも、全てわかっているとでもいうような余裕な態度の沖田が、こころなしか動揺しておろおろしているように見えて、千鶴は思わず吹き出した。
「違います、沖田さん! 妊娠なんてしてないです。これは私が子どもの頃に読んでいた記憶があって、懐かしいなって思って買いたくなっただけです」
沖田は、目を見開いて振り向く。
「……そうなの?」
「そうです」
「……」
沖田はしばらく何とも言えない表情をして……。そして「なんだあ」と呟くとほっと肩の力を抜いた。そして呟く。
「ほっとしたのか残念なのかよくわからないけど……本当に妊娠してないの? だって可能性はあるよね?」
思わせぶりな流し目で見られて、千鶴は昨夜を含めたこれまでの夜――夜だけではないが――を思い出して赤くなった。確かに夢中になってしまって避妊が完璧じゃないときも無くはなかったが。
「で、でも、今は多分大丈夫です。妊娠してない、と思います」
「ふーん……」
レジに向かう千鶴について行きながら、沖田は言った。
「なんか意外に残念の方が大きいかも」
「ざ、残念って……」
こんな真昼間に本屋でするような会話だろうかと、千鶴は真っ赤になりながら辺りを見渡す。
平日午前中の街の大きな本屋はあまり人がいなかった。
「千鶴ちゃんは子供、欲しくない?」
「ほ、欲しいとか欲しくないとか……」
何をいきなりストレートに…! と千鶴は目をぐるぐるさせた。沖田は少しだけ拗ねたような表情で、甘く提案してくる。
「僕は欲しいなあ。千鶴ちゃんとの子供。たーっぷり甘やかしてかわいがってあげたい」
「……」
沖田の口調や表情に、冗談ではない憧れが見えて千鶴は口を閉じた。
子供については、考えたことがなかった。
少し前の大きな出来事が終わって、沖田の体調も戻ってきて……ようやく落ち着いた生活が送れるようになったのだ。そこまで先の事は考えていなかった。でも、今、沖田の表情を見て。
「そう…ですね。私も、考えたことなかったですけど……でも素敵かなって思います」
沖田と二人で、二人の子供を、この時代で育てていく……想像すると笑顔になってしまう。沖田もにっこりとほほ笑んだ。
「だよね。じゃあ早速今夜から……」
「ま、待ってください! まだそんな…! こ、心の準備もあるし、沖田さん、調べたいこともあるって言ってたじゃないですか! あとあの山奥の山荘にももう一度行かないとって…!」
「まーね、でも別に問題ないんじゃない?」
「問題あります! もうちょっと落ち着いて先の見通しがついてからじゃないと!」
「まあ、そのへんは後でゆっくり話し合おうか。この後、綱道コーポレーションに行くんだよね? そこの資料室ででも」
これは絶対、沖田は自分の魅力を総動員させて千鶴を説得しにかかるに違いない。千鶴は後での話し合いに備えて心を強く持たなくてはと覚悟した。
「……ちづるはほっぺがあかいから……だからかみさまからの『おくりもの』は……」
急にこみ上げてきた吐き気に、少年はベッドの上で寝返りをうった。
まただ。あの注射をうたれると、いつも頭がぼんやりしてその後気持ち悪くなってくるのだ。そして息が苦しくなる。
「……っはあっ…はあっ」
他の事を考えるんだ。そうすると少しだけ楽になる。
少年は朦朧とする頭で、『おくりもの』の事を考える。
一時間に一度様子を見に来る白衣の男が、またやってきた。
「みずがのみたい……」
少年がそう言った言葉は、答えられることなくメモされる。白衣の男は持っていたノートに少年の言葉と、脈拍、呼吸数、熱、血圧を淡々と書いていった。
いつもこうなのだ。もうわかっている。少年と会話をする大人はここにはいない。
ここにいる大人は、いつも少年に苦い薬を飲ませ頭を痛くして、どれぐらい痛いか、いつまで痛いかをメモしたり、痛い注射をして、気持ち悪くて苦しいのがどのくらい続くのか見ているのだ。
あまり痛くなかったり気持ち悪くなかったりすると、今度はさらに倍の量を飲まされたり射たれたりする。
最初は泣き叫び抵抗し、懇願し謝り、もう痛いことはしないでほしいと何度もお願いしたが、聞きいられることなく無視された。
そして少年は、もうあきらた。心を麻痺させて時間だけをやり過ごすのだ。
白衣の男は最後に少年の瞳孔をチェックし、出て行った。その背中をぼんやりと眺めながら、吐き気を考えないようにして少年は呟く。
「ちづるの『おくりものは』……えがお……」
あの後何度か来た綱道コーポレーションの資料室で、沖田は倉庫いっぱいに立ち並んでるスチール製の本棚の番号を確認していた。
反対側から同じように本棚の番号をメモしながら歩いてきた千鶴と、部屋の真ん中あたりで落ちあう。
「どうだった?」
沖田が聞くと、千鶴はメモを見ながら答えた。
「棚の番号が古くて読み取りにくいものもあったんですが、確かに数字の棚とアルファベットの棚が混じってました。ほとんどの棚が数字で……アルファベットの棚はこっち側には二つだけでしたけど」
「そっか、僕の方には一つだけ。『F』があった」
「こっちは『E』と『D』です」
本来の棚の番号は数字で『1―1』から順番に『1―9』で一列。二列目は『2―1』から『2―9』のように、規則的に本棚についているプレートに綺麗に印字されている。こちらの方は数字に矛盾はなく整然としていた。
一方、今日沖田が『調べたいことがある』と言って千鶴と一緒に確認したそれは、本棚の下の方の金属部分にサインペンで殴り書きされた乱暴な手描きのアルファベットだった。
「こっちのサインペンの方は引っ越しとか模様替えの時とかの作業用に、特に深い意味もなく書いた番号だと思うんだけどね」
沖田は腕組みして、本棚だらけの倉庫を見渡した。
「これが何か問題なんですか?」
「問題ってわけじゃないんだけど、足りないんだよ。明らかに。社史も研究資料も契約文書も、いろいろ調べてきたけどどれも特定の時期のものがすっぽり抜けてる」
「……そういえば、大久保さん、父の研究資料は全部処分したって言ってました」
「うん、それはね。もともと公開する類のものじゃないだろうし、文書番号を付けて保管なんてしてなかっただろうから別にいんだ。それとは別に、公に保管してあるものに、すっぽり抜けてる年代があるんだよ」
「文書の保管期限が過ぎたから処分したとかでしょうか?」
千鶴の言葉に、沖田は「うーん…」と首を捻った。
「そうかもしれないけど、その年代以前の資料は、あるものもあるんだ。もちろんないものもあるんだけどね。で、ちょうどそこが僕がずっと探している年代部分……『A』『B』『C』のサインのある本棚にあるんだと思うんだよね」
「沖田さんが捜してる資料……ですか?」
「そう、君たちが……いや、君が綱道の娘になった時期。今から二十年前から十五年前ぐらいまでの資料」
ぐるりと部屋を見渡す沖田につられて千鶴もホコリ臭い倉庫を眺める。コンクリートの箱のような何の変哲もない部屋だ。
「……大久保さんに聞いてみましょうか? 別で保管してるかもしれないですし……」
「いや、もう聞いてみたよ。ここにあるのが全部だってさ」
「そうですか……」
丁度その時、ドアノブをガチャガチャという音がして、大久保のふくよかな顔がのぞいた。
「探し物は見つかったかい? 上でお茶でもどうかな? 千鶴ちゃんにはサインしてもらわないといけない書類もいくつかあるんだが……」
この状態でここにいてもしょうがない。千鶴が沖田を見ると、沖田も肩をすくめて頷いた。
「はい。じゃあお邪魔します」
コポコポコポコポ……というコーヒーのはいる音とともに、いい匂いが部屋に立ち込める。
社長室の奥にある簡易キッチンで、大久保はコーヒーカップを準備し、千鶴はそれを手伝っていた。
沖田は、キッチンからは見えない社長室のソファにいる。
「手伝ってもらってすまないね」
人のよさそうな笑顔の大久保に、千鶴もにっこりとほほ笑んだ。
「いいえ、こちらこそ。いつもお茶をだしていただいてありがとうございます」
「こんなことぐらいしかできないからね」
自嘲するように笑う大久保に、千鶴は「そんな…」と困った顔をした。いつも千鶴の心配をしてくれて、ありがたいと思っているのに。
大久保は、はいりたてのコーヒーをカップにそそぐ。
「綱道さんもいなくなってしまったし、身よりのいない君に変なのが近寄ってこないのか心配なんだよ。もう成人している大人なんだから余計なお世話だってのはわかってるんだけどね。どうしても小さなころから知ってるせいか、子ども扱いがぬけなくて……すまないね」
大久保が言っている『近寄ってくる変なの』とは、主に沖田のことだろう。沖田が、身寄りがなくお金をたくさん持っている千鶴を利用しようとしているのではないかと大久保は心配してくれているのだ。
以前、こっそり千鶴だけ大久保の自宅に呼び出され、大久保と大久保の妻とに、『沖田の身辺調査をした』と打ち明けられたくらいだ。
『悪いと思ったけど、探偵会社二社に、あの沖田総司っていう男を調べさせたんだよ。なのに全く何の情報も出てこなかった。戸籍もだよ? おかしいよ千鶴ちゃん。何かへんなことにまきこまれてるんじゃないのかい?』
大久保のつぶらな瞳は心配そうに細められ、組まれた両手は落ち着き無く動いていた。大久保の妻も深刻な顔をして千鶴を覗き込んでいる。千鶴は返答に困った。
『沖田さんは……ずっと外国にいて。だから戸籍も日本にはないんです。だから情報もあんまりないんだと』
その後、どこで知り合ったのか、ひどいことはされていないか、散々心配され、何かあったらすぐに大久保に相談するようにと約束させられた。
千鶴が沖田の事を心から信頼しているということは、今は理解してくれているようだが、それでもやはり心配は心配らしい。
大久保夫妻の優しさを思い出して、千鶴はふふっと小さく笑った。
「ありがとうございます。余計なお世話だなんて思ってないです。父もいないし親戚も……家族ももう誰もいないので。大久保のおじさまのことは勝手に親戚だって思ってるんですよ」
大久保はほっとしたように笑った。
「そうかい。それは嬉しいよ。千鶴ちゃんは本当に娘みたいなもんだ」
大久保と千鶴と沖田が、コーヒーを飲みながら他愛もない話をしているとき。
ふと思いついたように、沖田が聞いた。
「大久保さん、聞きたいことがあるんですけどいいですか?」
大久保は、苦手な沖田から話しかけられて一瞬ひるんだ。
「あ、ああ。もちろん。なんだい?」
「薫のことなんですけど。千鶴ちゃんの双子の兄の」
沖田がそう言った途端、大久保の顔からさっと血の気が引いた。真っ白になった大久保の顔を見て千鶴は驚く。
大久保は目を見開いたまま千鶴の顔を見て、次に唇を震わせて沖田に言った。
「な、何を……君は何を……ち、千鶴ちゃんには兄なんて……」
沖田はあっさりと手を振って大久保の言葉をさえぎる。
「千鶴ちゃんはもう知ってますよ。自分に双子の兄がいる――いたって。僕たちが一階の資料室でずっと探しているのは、薫の資料なんです。前聞いた時ははっきりした返事はもらえなかったけど、どうなんです? どこにあるか知っていますよね?」
大久保は目を見開いた蒼い顔のまま、千鶴へ視線を向けた。『知っているのか』というその表情に、千鶴はうなずく。
「ちょっとしたことで知ったんです。おじさま、知っているのなら教えてください。全然覚えていないですけど、もし兄がいるのなら私は会いたいです」
大久保は、目を見開いたまま強張った様子で首を横に振った。
「し、知らない。………本当に知らないんだ。私は、……薫君がいたことは知っていたが、そのプロジェクト……いや、彼には私はかかわっていなかった」
『プロジェクト』という言葉に、沖田の目がきらりと光る。
「薫が何をされていたかもあなたは知らなかった?」
大久保の震えがひどくなった。持っていたコーヒーカップがカチャカチャを音をたて出し、大久保は慌てたようにそれを机に置く。
「…………」
答えは無かった。
しかし逸らすようにして目を合わせない大久保の様子が、答えのようなものだ。
暫くの沈黙の後、沖田はソファから立ち上がった。
「……資料の場所について、何か思い出したら千鶴ちゃんまで連絡ください。千鶴ちゃん、帰ろうか」
大久保の様子が気になるものの、沖田にそう言われて、千鶴は立ち上がった。その時、本屋で買い物してきた手提げ袋を膝から落としてしまう。
「あっ」
紙袋から何冊かの本が床に落ちた。その中で大久保の足元に落ちた一冊を、大久保は食い入るように見つめている。
「あ、あの……おじさま。ありがとうございます。……絵本を……」
千鶴が手を差し出すと、大久保はハッとして足元の絵本を取り上げて千鶴に渡した。
「……千鶴ちゃん、その絵本は……」
大久保の顔色の悪さに、千鶴は眉を寄せる。
沖田があんな爆弾をいきなり落とすから……、と千鶴は呑気に社長室のドア辺りで彼女を待っている沖田を睨んだ。
「この絵本は、今日ここに来る前に寄った本屋さんでたまたま見つけて。小さいころに読んだ記憶があったんで思わず買っちゃったんです」
雰囲気を変えるように、千鶴は明るく説明したが、大久保の顔色は青白いままだ。
「じゃあ、……あの、突然薫のことを聞いてすいませんでした。でも知りたくて……」
千鶴の謝罪も上の空のようで、大久保は「ああ」とうなずき、社長室のドアを開ける。
「おじさま、顔色が悪いですけど大丈夫ですか?誰か呼びましょうか?」
千鶴が心配してそう言ったが、大久保は首を横に振って「大丈夫だ」と答えた。
そして明らかに無理やり作った笑顔で、「気を付けて帰りなさい」と千鶴と沖田を見送る。
二人を乗せたエレベーターの扉が閉まると、大久保の脳裏には先ほど手にとった絵本の表紙絵が広がった。
それを渡したときの記憶も。
『君が……君が欲しいって言ってたのはこの絵本だろう?綱道さんに頼んで一つだけ、何か君の欲しいものをあげていいと許可をもらったんだよ』
そう言って差し出された絵本を、ベッドの上で横たわっている少年は無表情で見た。
枕元に吐いた後があるから、今も実験の最中なのだろう。
大久保はごまかすように笑うと、少年の枕元に絵本を置いた。
「じゃ、ここに置いておくからね。気分が……気分が、その……良くなったら……いや気分が良いときがあったら、手に取ってみるといい……」
少年が『気分が良い時』というのはこの先くるのだろうか。
窓のない小さな部屋。無機質なベッドと机だけ。
食事と学習はさせているようだが、実験がすべてに優先すると言っていた。食事も学習も、実験結果の一つなのだろう。
なんの返事もない少年に、大久保は「じゃあ」と言うと逃げるように部屋を出た。
背後からかすかに『ありがとうございます』という声が聞こえた。
チンという音と共に、エレベータの扉が開く。
午後のまぶしい光が差し込む中、二人は綱道コーポ―レーションのエントランスから外へと歩いていった。
「もう! 沖田さん、ひどいです。大久保のおじ様、真っ青だったじゃないですか。あんな責めるような言い方……」
千鶴が膨れてそう言うと、沖田は眉をあげた。
「そうだった? ごめんね」
気づいてたくせに、と千鶴は更にむくれる。
「結局大久保のおじ様は何も知らないみたいですし……私と沖田さんでもう少し探してみるしかないみたいですね」
千鶴がそう言うと、沖田はジーンスのポケットから車のキーを取り出しながら答える。
「……タヌキか善人か小心者か……どれだろうね」
そう言った沖田の横顔は、例のごとく何を考えているのかよくわからない。千鶴は首をかしげる。
「え? 大久保のおじ様のことですか? おじ様はいい人ですよ」
沖田は肩をすくめ、千鶴の荷物を後部座席に入れながら言った。
「……だといいけどね」